生きる目的
無垢な小さな生き物を眺めていて癒されるのは
ほんのわずかの事で消えてしまいそうな儚さと
それを守りたいと思う心と
もう一つは
彼らが深く物事を考えているわけではなく
「ただ生きるために生きている」
その姿になんだか人間の肩肘張った生きる様とはまったく違う
それでいいんだ、て思わせてくれるような
癒しがあるからのような気がする。
彼らの幸せは擬人化してはいけない。
安心できるテリトリーと、生きるのに困らない食べ物があることが最も大切で
独りぼっちで寂しくはないか、とか余計な事を考えるとストレスを与えてしまう。
それに引き換え、人間は面倒くさい生き物であります。
生まれた時は小動物と同じ、無垢の生き物であったはずが
いつの頃からか、何故、何のため、と言う次々湧いて来る疑問に
一々理由をつけていないと先に進めない。
高度なやらなければならない事が増えていって
理由でも見つけないとやってられないんだろう。
やらなければならない事に一々理由をつけて取り組む様は
小さな生き物が
「生きるために生きている」
のとは大きく違う。
めんどくさい、だけどやらないとならないもっともらしい理由をほしがるのは
「生きていられるのは当たり前だ」
と言うわりと傲慢な前提があるからだ。
人間も昔は違ったはずだと思う。
命と言うのは明日をも知れないものであり
誕生日を祝い、節句まで生き延びれた事を祝い
戦時中のような過酷な状況であれば、今日食べるものを手に入れるために血眼になって
「生きるために生きている」
と言う時代があったと思うし、今も知っている人々は居る。
ともすれば、今日を平和に生き延びたありがたさなんて
現代の日本人の頭からは消えてしまっていたりして
つまらない一日だった
不愉快な事があった
過酷な日々に追われて、なんのために頑張っているんだろう
と言うような高度な不満が生き延びた幸せや感謝を上回ってしまう。
成長するごとに増えていく疑問符の
その答えを探すために生きているような人生
勉強、仕事、人との関り合い
何故何故何故
それもまた平和な時代の人間ならではなのかもしれない。
でも今日普通にご飯を食べられて、布団で眠れるありがたみを忘れてしまうと
そんな疑問符の答えが見つからない事にストレスを溜めて
はけ口を探して何処かに怒りをぶつけたり、くだらないストレス発散をして自分に戻ってくるしっぺ返しに痛い思いをする。
なんのために生きてるか、なんて
そんなに大きな目的じゃなくていいのではないだろうか。
寿命をまっとうする、と言う事が生まれて来た命の目指すべき目的ならば
「ただ生きるために生きる」
事を忘れてはいけないような気がしている。
今日無事に生き延びた事が、当たり前だと思っていたら
そんなシンプルな事も忘れてしまう。
その上に、自分だけの誰にも譲れない大切なものがほんの少しあったなら
それだけを精一杯大切にして
それで十分幸せなのだと思う。