愛があるなら怒ろう
何事もなく常に平和な気持ちで生きていられたら幸せ
そうかもしれないんだけど
怒りの感情、て
時に自分を深く掘り下げてみる良い機会になったりする。
今なんで怒ってるんだろう。
自分の大切なものを傷つけたとか、あまりにも理不尽だとか
理由は色々なんですけど
ふか~くふか~く掘り下げていくと、ある答えにたどり着くことがある。
それは
その人が大好きだ、と言う結論。
怒る事と怒っても仕方のない事の線引きは明確にしておきたいものだ。
怒る事がいずれ相手のためになる時は愛をもって盛大に怒っても良いのではないか。
どう考えても許せない事は怒っても良いのではないか。
社会的な繋がりの中でなぁなぁにしがちな事も
大人だから、男だから、となぁなぁにするのも
必要な事をちゃんとする人達を偉いなぁ、て思っても
心底信頼はできない。
ホントは何考えてるかわからないから。
時にはあなたは私を怒らせましたよ、傷つけましたよ、と明確に
誰かに言われることもまた相手のためだったりする時がある。
この世にたった一人だけ私を分裂病にするぐらいの勢いで
大好きと大嫌いが同時存在する人が居る。
たくさんの事を教えてもらい、たくさんの感動をもらい
たくさんの景色を一緒に見て
深く考えさせられるテーマをもらい
その人がいて今の私があると言っても過言ではないほどの大きな存在であるにもかかわらず
どこからともなく湧いてくるアンチテーゼで心が溢れかえり
その人の事を書いていると、大好きな気持ちを書きながら
心のどこかに怒りが充満して破裂しそうになる。
だからある時期からその人の事を書かなくなった。
多分その人に対して私は怒る事ができないのだ。
それを凌駕するほどの大好きな気持ちが勝ってしまう。
だけど表出できない怒りは深層心理にため込まれていく。
きっと取っ組み合いのけんかでもしたら良いのかもしれないけど
私にはできなかった。
結局のところ、受け入れてもらいきれない自分を持て余し
地団太踏んでる子供のような自分にも嫌気がさした。
ちゃんとその怒りを表出できてさえいたら
今もまだ変わらぬ関係を保てていたのかもしれないのだけど。
私のたった一つの大人になってからの後悔。
愛情から一番遠いところにあるのは
無関心である
と、私は思う。
怒られている内は
まだ愛されているのだ。
怒るのなんてパワーのいることだし
なにがしか関係を良くしたいと思うから怒るのだ。
だから私は何処かの時点まではちゃんと怒る事にしている。
でもその後の反応でちゃんと人間関係を立て直せるかどうか、その人の事をしばらく観察している。
その上で
愛情を失くした人に対しては徹底した無関心を貫くことにしている。
忘れてしまえばいいのだ。
後々までグチグチと悪口を言ったり嫌がらせをしたり書いたりはしない。
それも愛情になってしまうから。