星の王子様?
昨日は慣れない都内で盛大に迷子になっていた(笑)
バイクでも車でも都心は嫌だ。
昨日はナビも使っていたのだけど、ナビも大パニックを起こしてお手上げ^^;
待ち人を寒空の下30分も待たせる事になってしまった…
彼は奥多摩で出会ったバイク乗りの友人なんですが
他にも妙な縁があります。
それは、病気や怪我で入院や手術やリハビリが必要な時期が何故かいつも一致する
病み友なのです(笑)
今回私も骨折療養してましたが
彼もまた入院しており、リハビリ開始も同時スタートになりました。
うーむ、12針
今回も中々の病みっぷりであります^^;
こんなの腰だから見えないけど自分で目の当たりにしたら卒倒しそう。
一緒に歩いているといきなりガクッと落ちるように座り込んでしまう事が折々あったので心配はしていたのですが、足の麻痺もようやくこれで良くなりそうです。
他にも心臓の持病諸々あり、身体の中には人工部品が入ってます。
「着々と機械人間化が進んでますw」
笑うところなんだろうか( ̄▽ ̄;)
私がお腹の腫瘍摘出の手術の後、体調が中々戻らず
このまま元気に戻れる日は来ないのではないか、とか
子宮を失って激変する自分の身体にガックリ来ていた時期があった。
メンタル的に最高潮に下落していたそんな時期に彼にはいっぱい助けてもらった。
障碍者手帳も持っている彼は
手帳を使うと割引が受けられたりする事を調べてガッツリ把握していて
色々な所へ遊びに連れて行ってくれた。
「病気いっぱいあります~、障碍者です。ですけどなにか?」
と言う彼のスタンスが、徐々に自分もそうでありたいと言う思いに変えて行ってくれた。
その事に対する感謝の念はずっと消えない。
予定通り退院することができず、病院でリハビリの日々を過ごしている彼に
ちょっと気晴らしのお喋りでも、と思って顔を出して
あげく3時間近くくっちゃべっていた。
その笑顔はいつもと同じで
術後で大変だ、とかそんな風には少しも見えず
お見舞いに行ってこっちが元気をもらうぐらいの楽しい一時だった。
なんでこんなに強くいられるんだろうな。
いつも思う。
この人は実は他の星の住人で
地球の環境に体が合わないだけなんじゃないだろうか、と
身長187センチ、今回の手術でまたのびるかもしれません(笑)
このルックスで実に御年52歳
病気をしても歳を重ねても少しもやつれたり老けたりしない。
う~ん
やっぱりこの人は他の星の王子様なんだと
そう思っておく方が腑に落ちるので
そう思っておくことにする。
さすがに今回は私の回復が先になると思うので
いつもの道へ彼がバイクに乗ってやってくる日を
先に行って待っていようと思う。
梅見散歩~梅ケ谷峠
春を探しに出かけた。
骨折して引きこもっている間にすっかり季節が移り替わっている。
車での移動はできたけど、それだと体感があまりない。
バイクは自由の翼、と常々言ってますが
それはこの体感と言う事が一番大きく
色々な空気を自分の五感全てで感じる事ができるからです。
そしてもう一つは
まるでバイクが自分の身体の一部になったみたいに
手先からハンドルに神経がのびて繋がるような
自分の足からステップに伝わるほんのちょっとの挙動が
足で大地を蹴るがごとくの一体感をくれるのです。
何処か行きたい所があって
車で目的地に向かうのは快適で
そして退屈。
目的なんてなんだっていい。
そこへ向かって走る事そのものが楽しいのがバイク。
花粉を全身に浴びていても
走っている間は案外アレルギー症状も収まっているもの。
全身の神経を張り詰めて走っている間
杉花粉に拒絶反応を示す余裕はなくなるらしい。
もっとも帰ってから酷い目に合うんですけど(笑)
ここは梅ケ谷峠。
山の梅は満開まであと少し時間がいりそうです。
住んでいる街の梅はもう満開ですが
標高が高くなると段々と季節が戻っていきます。
これは桜でもそうですし
逆に紅葉だと上から段々下界へ向かって進んでいく。
バイクで走って山を登れば
木々の見せる景色とその場所の空気が変わっていくのを体感できる。
街へ戻って見れば
同じ梅の木は満開で
鶯が数羽。
春そのものの景色です。
逃げられる直前に頑張って撮ったけど
ピントを合わせる暇はくれなかった。
春の街から
春待ちの山へ
そして春の街へ戻る
ちょっとだけ時間を遡るような
短いお散歩でした。
まだまだ当分リハビリ。
晴れて私の足が元気を取り戻して、元のように走れるようになる頃
大好きな奥多摩にも春が来ているといいな。
それまでもう少し
山の春には待っていて欲しい。
杉花粉だけは
早々に終わって欲しいんですけどね。
楽しみの楽しみ方
友人からお見舞いに、て
blueSEALのアイスが届きました。
初めて食べました。
常日頃アイス、てあんまり食べないのですが
せっかくなので子供たちが争奪戦したのを一口ずつ味見。
一個食べるより得した気分w
甘いものを口にしたのは久しぶり。
骨折療養中は動けなかったので、麦雑炊ぐらいしか口にしませんでした。
リハビリとともに厳しい食事制限も少しずつ解除していいのかな。
いや、でもまだ不安だ(笑)
元気に動き回れるようになったら
あれ食べたい、これ食べたいのお楽しみが膨らむ。
療養中に、いつの間にか増えているバイク用品を少々整理した。
そんなにしょっちゅう買う訳ではないのですが、色が合わなくなったりプレゼントやお下がりもあって気が付けばバイク用品置き場から溢れてしまう。
もちろん捨てはしない。
使えそうな人が浮かぶ時はあげてしまうし
そうでないものは綺麗にして専門のリサイクルショップへ持って行ったりする。
今回は思ったより売り上げが良かったので
売ると同時に買うと値引きしてくれると言うので、自分の気に入ったグローブを一つ買った。
晴れて完治のお墨付きが出る日に使うお楽しみだ。
療養中は置きっぱなしになっているライディングブーツを引っ張り出してみる。
埃が積もってる(;^_^A
履いて歩いて
拘束される安心感と
これで歩く痛みがまだ残る場所を確認。
綺麗に拭いてあげたら
次に履いて出られる日のお楽しみが増える。
復活の日はもうすぐそこ。
晴れてあの道が走れるようになるのも
もうすぐ。
お楽しみは
焦れて待っているぐらいがちょうどいい。
恋い焦がれる焦燥感に
もどかしさを存分に味わうのもまた醍醐味。
不思議なもので
楽しみな事、て
もちろん当日も楽しいけれど
早く来ないかと、指折り数えている日が一番幸せな気がする。
終わってしまったら、一回抜け殻になる。
楽しかった日の追想をしばし楽しんだら日記に書いて
また次の楽しみを探す。
そう多くは望むことのできぬ最高の一日を余すところなく存分に楽しむには
焦れて待つ時間も、思い出す時間も大切。
こうして人生は楽しみの点と点をつなぎ
殺伐とした日々の中にあったとしても
楽しかった思い出の日記を紡ぎ続ける歴史を重ねる。
盗む人の心
なんかバイクカバー盗まれたみたいです。
バイクは駐車場を貸してもらっているんですが、駐車場主からカバーがないよ、と連絡があり
見てみると一台だけありません。
ここは南側に建物が並び、カバーが飛んでしまうとしたら北風だけなんです。
そしてカバーが飛ぶほどの風が吹いていたら、他のバイクや自転車のカバーも飛ぶんですけど
一台だけ無くなっており、飛んだら引っかかるべき場所にも何処にもありませんでした。
仲間内に話すと、そんなもん盗む人いるんだ~
どうしても欲しかったのか愉快犯かどっちかだね~
バイクを盗まれたらシャレになりませんが
あんまり聞かない話にみんな苦笑
そうは言っても自分の管理が悪かった、と反省し
盗まれたのは善意で頂いたものだったので、くれた方にホントに申し訳なく
まだおろしたてだったのに、とちょっと腹立たしくもあり
新しいものにはU字ロックをちゃんと通し、消えないように目印を書きました。
これなら破かない限り盗れないし
盗っても恥ずかしくて使えないような目印を入れたので多分使えないでしょう(笑)
人のものを盗む
盗難と言うのははるか昔からある事ですけど
ホントに困ってる、生きるのに困窮する、と言うような場合は色々な手が差し伸べられる現代。
そうでないような単に盗む、それを楽しむ、人を困らせると言う行為をする人が
一体どれだけ想像力が欠如しているのか、と哀しくなる。
先日も女性が手足を縛られて殺されていた強盗事件がありました。
お金だって、その人がどれだけの時間頑張って貯めてきたものだったのか
モノだって持ち主がどれだけ大切にしているのか
命を奪ったら悲しむ人がいる
殺される人の恐怖や痛み
なにも・・・
自分の身に置き換えて想像してみる事はできないのだろうか。
ピカピカの美しいものならば
それなりの対価を持ち主は支払うための努力をしたはずだ。
そうでないものであっても
長い間一緒に過ごし、手入れして大事にしてきたその価値を
盗む人、壊す人にわかるはずもない。
それが欲しい、それがあったら自分は幸せだ
その事は良くわかるのに
人が失う悲しみを理解できないのは
人には心があり、自分と同じように嘆き悲しむものなのだ、と
そんな当たり前の事がわからなくなっている人がどれだけ多いのか、と言う事なのだろうと思う。
何処で学びそびれて大人になってしまっているのだろう。
私には理解できない。
バイク乗りの春
「おお~、見事に骨がのっかってる!」
先生も驚きのスピード回復でありました。
これだけ回復していればもう痛みはないでしょう、と言う先生の判断の元
「リハビリを開始してください。」
のお言葉をいただくことができました。
リハビリ、と言っても何か通ってしなくてはならないわけではなく
「普通の生活に戻れるように努力してください。」
と言うものだった。
「筋力も体力も落ちています。少しずつね。」
普通の生活。
私にとってそれは
バイクのある生活!
「ギアチェンジ、う~ん。ちょっと痛みがあるかもしれないから慎重にね。」
ハイ、慎重にリハビリします!
全治1か月、とわかっていても
長く長く感じられた療養生活に
終りが見えてきた日
外は寒くとも、心は春のように暖かい日だった。
しばらく走らないでいる内に、世の中はちゃんと季節が移り替わっていた。
走る道にはたくさんのバイクが居て
すれ違うバイクが手を上げて挨拶してくれたりする。
みんな嬉しそうだ。
バイク乗りにとって
やっと乗れる
やっと走れる
春は天国
嬉しくて嬉しくて
行きかうバイクにみんな挨拶して
嬉しいね、楽しいね、て
言葉じゃなくて伝わる
バイク乗りの挨拶をしたくなるのだ。
杉花粉?
モロですよ、モロ浴び
苦しいですね(笑)
寒くても暑くても、花粉でもみんな自分の身体で体感するのがバイク。
ヘルメットの中で、マスクの上にネックウォーマーを鼻まで上げて
実はニンジャみたいな姿で走っていても
それでも幸せなの。
それはそれは重たい冬装備を脱いで
軽快に走る春の道。
やっと私にもその日が見えてきました。
療養の冬眠からちょっとずつ目を覚まし
暗い穴倉から這い出して
またあの場所へ行ける日を目指して
やっと暖かい春の日差しが
私の元へも届くようになりました。
生きる目的
無垢な小さな生き物を眺めていて癒されるのは
ほんのわずかの事で消えてしまいそうな儚さと
それを守りたいと思う心と
もう一つは
彼らが深く物事を考えているわけではなく
「ただ生きるために生きている」
その姿になんだか人間の肩肘張った生きる様とはまったく違う
それでいいんだ、て思わせてくれるような
癒しがあるからのような気がする。
彼らの幸せは擬人化してはいけない。
安心できるテリトリーと、生きるのに困らない食べ物があることが最も大切で
独りぼっちで寂しくはないか、とか余計な事を考えるとストレスを与えてしまう。
それに引き換え、人間は面倒くさい生き物であります。
生まれた時は小動物と同じ、無垢の生き物であったはずが
いつの頃からか、何故、何のため、と言う次々湧いて来る疑問に
一々理由をつけていないと先に進めない。
高度なやらなければならない事が増えていって
理由でも見つけないとやってられないんだろう。
やらなければならない事に一々理由をつけて取り組む様は
小さな生き物が
「生きるために生きている」
のとは大きく違う。
めんどくさい、だけどやらないとならないもっともらしい理由をほしがるのは
「生きていられるのは当たり前だ」
と言うわりと傲慢な前提があるからだ。
人間も昔は違ったはずだと思う。
命と言うのは明日をも知れないものであり
誕生日を祝い、節句まで生き延びれた事を祝い
戦時中のような過酷な状況であれば、今日食べるものを手に入れるために血眼になって
「生きるために生きている」
と言う時代があったと思うし、今も知っている人々は居る。
ともすれば、今日を平和に生き延びたありがたさなんて
現代の日本人の頭からは消えてしまっていたりして
つまらない一日だった
不愉快な事があった
過酷な日々に追われて、なんのために頑張っているんだろう
と言うような高度な不満が生き延びた幸せや感謝を上回ってしまう。
成長するごとに増えていく疑問符の
その答えを探すために生きているような人生
勉強、仕事、人との関り合い
何故何故何故
それもまた平和な時代の人間ならではなのかもしれない。
でも今日普通にご飯を食べられて、布団で眠れるありがたみを忘れてしまうと
そんな疑問符の答えが見つからない事にストレスを溜めて
はけ口を探して何処かに怒りをぶつけたり、くだらないストレス発散をして自分に戻ってくるしっぺ返しに痛い思いをする。
なんのために生きてるか、なんて
そんなに大きな目的じゃなくていいのではないだろうか。
寿命をまっとうする、と言う事が生まれて来た命の目指すべき目的ならば
「ただ生きるために生きる」
事を忘れてはいけないような気がしている。
今日無事に生き延びた事が、当たり前だと思っていたら
そんなシンプルな事も忘れてしまう。
その上に、自分だけの誰にも譲れない大切なものがほんの少しあったなら
それだけを精一杯大切にして
それで十分幸せなのだと思う。
好きなタイプ より 「好き」の心
好きなタイプは?
と、聞かれたら
大体の人は自分の好みがあると思うのです。
その「好き」がどこに由来しているのかと言えば
幼いころから見て来た光景
経験してきた心地よい思い出
自分に幸せの感覚をもたらしてくれる理由はきっと何かあるのだと思う。
それでも、経験したことがない
あるいは関わってみたことが無いものを
自分の「好き」から外してしまうのはとても勿体ない。
買い替えたばかりの新しいバイクに乗る時
それがどんなにデータ上では自分に合っていると納得して買ったのだとしても
初めて乗る時の違和感やドキドキは何度経験しても変わらない。
決して安くはない買い物。
その選択はホントに合っていたのか
自分の体に、走りにフィットするのか
そんなのはスペックだけでわかるものでもないし
理屈でもないし
数値の表をいくら眺めても体感はできない。
その答えは
乗って走って初めてわかる。
それがわかったならば
乗ってみたことのない人に何を言われても
自分の「好き」がおかしいなどと考える必要は全くない。
それはね、外見の好き嫌いとか
ハナから生理的に合わないとか
細胞レベルで拒否感がある事もあるだろうけれど
案外後々結婚した二人が
第一印象は悪くてね、なんて
思い出話をしていることはよくある事だったりする。
乗り越えられる印象の悪さなら
良く知ってみようと一度は努力してみるのも悪くない。
人であっても、動物であっても、モノであっても
「好き」
がたくさんある人は
自分の人生の幸せの数がそれだけ増える
歳と共にガチガチに固まっていた好きなタイプだって
何かのきっかけでコロッと変わったりすることもある。
だから定型化した好きなタイプに拘るのは案外自分の世界を小さくまとめてしまったりするのかもしれません。
余談ですが、我が一族は何故か夫婦の年が10歳は離れているのが代々続いています。
自分も若い頃からずっと年上のおじ様が大好きでしたが、それも遺伝なのかと思ってました。
でもいざ自分が歳をとってみれば
身の回りの年下もすでにおじ様だったりする現実(笑)
好きなタイプ、なんて定型は無意味ですね。
でも自分が何かを「好き」と思える心は
歳をとっても
いえ、歳を重ねるごとに増えていって
いつかの自分よりたくさんたくさん持っていたいものです。